小さな箱庭Diary

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いちばん美味しいごはんの3回め【5人家族になりました】

焼き肉、パン食べ放題、お寿司、ピザ、ローストビーフ、その他いろいろ。世の中には何度食べてもおいしい食べ物がいっぱいあって、そのなかから「いちばん」を決めるのは難しいものです。でも、わたしにとっては"これしかない"と思うごはんがあります。

それは、人生でいちばんの大仕事を終えたあとに食べる、ごはん。分娩台のうえで、病室のベッドのうえで食べたごはんの味は、きっと一生、忘れることができません。

 


 

某月。冬の日差しがあたたかい日のこと。点滴されたと思ったらはじまった怒涛のような展開のあと、ふぎゃあと聞こえてきた元気いっぱいな声に、思わず大きなため息がでました。


――ようやく、おわった。


心の中はうれしさ100パーセントと達成感120パーセント。やりとげた喜びのすがすがしさは、茫然自失の一歩手前。バスタオルに巻かれたもぞもぞ動く赤ちゃんを見ながら「よかった、よかった…」としか呟けないわたしに、隣にいた主人が「お疲れさま」と労ってくれ、長いようで短かった、人生で最後のトツキトウカが頭を駆けめぐります。


5人家族になりたい。子どもが3人いたら楽しいだろうな。子どもがいない夫婦2人のときから、3人の子どもに憧れていました。なかなか子どもに恵まれなかったぶん、3人っていいなあと。


仕事をしながらの通院はなかなかに大変なことを知っていたけれど、時間は待ってくれないから積極的に治療をしよう。そう夫婦で決めて挑んだ3回めの不妊治療のおかげで、運よく念願の3人めを授かることができて、そして喜びを噛みしめているうちに、"ソレ"はやってきたのです。


ドラマで描かれている、炊き立てのごはんが入った炊飯器を開けて「ウッ」となったらすぐに赤ちゃんを抱っこしている――ような幻想ではなく、ゾンビ、屍、何もできず、虚空を見つめるしかない、人間らしさを失うほどのつわりが。悪阻と漢字で書くと重苦しくてよけいに辛くなってしまうからTU⭐︎WA⭐︎RIときらきらさせてみたところで辛いものは辛い、1日を幾年に感じるほどの月日の始まりが。

 

しんどさを覚悟して妊娠した――つもりでした。これまでの経験からつわりはいつか終わると知っていたし、乗り切り方も学んでいます。食べれるものを食べて、飲めるものを飲んで、ただ時がすぎるのを待てばよいと。

そうは言っても、朝から晩まで耐えがたい気持ち悪さに襲われるのです。

食べものはほぼ食べることができず、メロンパンとチョコモナカジャンボが生命線。1日にチョコモナカジャンボのハーフが食べられたらいいほう。ありとあらゆる匂いが耐えられなくて、主人の匂いも料理の匂いを嗅ぐとえずくとなれば、家庭内での別居生活。喋ることすらままならないのに、スマホを見るだけで気持ち悪くなってしまう。頑張って食べたアメリカンチェリーが赤色に光ります。

何をしても、何もしなくても気持ちが悪くて、文字通り、布団に横たわることしかできません。座椅子に座ると、口からキラキラしたものが出てきてしまうから。

窓から差し込む朝日、外から聞こえるバイクの音。ありとあらゆる外的刺激が不快で、耳栓とアイマスクをつけて、ただ眠るだけの日々がつづきます。

現代文明において、なぜつわりの特効薬は「時間」しかないのでしょう。つわりに効くという、フライドポテトも、梅干しも、鍼もお灸も、わたしには効かない…。つわりがあるということはお腹の赤ちゃんがすくすく成長してくれている証だという迷信を信じたり、つわりが重いほど子どものIQが高くなるという研究結果(最新科学で明かされた「つわり」と「IQ」の関係【書籍オンライン編集部セレクション】)にすがったり。そして眠ることだけが、苦しみから解放されるひとときでした。

 

お風呂? そんなものは2〜3日入らなくても大丈夫!! ホットタオルと汗拭きシートを使い、不快感をしのぎます。水のいらないシャンプーに、何日助けられたことか。さすがに健診で外出せざるを得ないときは、3日分の体力と引き換えにシャワーを浴びたけれど、髪が長いとドライヤーすら、全力疾走とおなじくらい体力を消耗します。

歯磨き? そんなものは2〜3日磨かなくても大丈夫!! スーッとする歯磨き粉やマウスウォッシュが受け付けられず、ただお水でうがいするだけ。食べものを食べないと、意外と虫歯にはならないものです。

 

朝から晩までパジャマで過ごし、しかもそのパジャマは主人から借りたもの。ウエストのゴムが苦しくて、もはや裸で過ごしたいほどの不快感に、奥歯を噛みしめ、うーうーと唸ります。手負いの獣のように。通院のたび「安定期に入ったら落ち着く」と言われるまま、1日を耐えます。耐えます。ただ、耐えます。

 

そうして、少しずつ。ほんの少しずつ月日が経ちました。紙の本が読めるように、ヨーグルトが食べれるように、野菜ジュースが飲めるようになって、スマホがちょっとだけ見れるようになりました。そのときの検索履歴は、「つわり いつ 終わる」「つわり 食べもの」「つわり 緩和」で埋め尽くされたという。3回つわりを経験しているというのに、いつもおなじことばっかり検索してしまいます。

 

指折り数え、ぶじに安定期と呼ばれる妊娠5ヶ月を迎えました。ようやく、ごはんが美味しく、モリモリ食べられるようになりました。めでたしめでたし――だったらどんなによかったかしら? 安定期を過ぎるとまともなご飯(おむすび、お味噌汁など)を食べれるようにはなったものの、食べても“美味しい“と感じることができません。口の中にティッシュを詰め込まれているような違和感があるし、何より空腹感が迷子。お腹は空かないけど、時間になったから仕方なくご飯を食べるような生活がしばらく、妊娠7ヶ月ごろまで続きました。

妊娠7ヶ月といえば、もうトツキトウカの折り返し。体をふたつに分つまであと僅かになってからようやく、お腹が空くようになって、ご飯が美味しいと感じれるようになったのです。まあそれも、なんとなく口内不快感が残っているし、食後に淡が絡んだり息苦しかったりと、妊娠前と同じようになるわけではないのですよね…。でも、つわりのピークに比べたらなんのその。あとは出産までうまく付き合っていけばいいだけですから。

来たるべき日が来たら、きっと圧迫された胃がすっきりして、なんでもどれだけでも美味しく食べられるようになる。そんな希望を胸に、出産後に食べたいものリストをつくりました。ローストビーフ、春巻き、パン食べ放題、チョコレートケーキetc。食べたいものがあり過ぎて、廃人のようだったわたしをずっとそばで支えてくれた主人を苦笑させてしまうほどに。主人は、「いいよ、優先度をつけてね」となんとも理系らしい返答をしてくれました。

 

冬のあたたかい日が、来たるべき日でした。みんなで待ち望んでいた新しいちいさな家族を見ていると、主人がそっとわたしの頭を撫でてくれます。心なしか、主人の目は潤んでいるように見えました。長かったつわりと、長いようで短かったトツキトオカが終わったとき――ようやく、おわった――と、大きなため息をついてしまうものです。

ふぎゃあ、ふぎゃあと元気いっぱいに泣いてくれた赤ちゃんは、頼りないほどにちいさくて、でも、これまで自分のお腹の中に収納されていたとは信じられません。信じられないくらいに、かわいくて、愛おしい。大仕事を終えて放心しきったあと、何度も何度も「かわいい、ほんとにかわいい」と連呼してしまうくらい、かわいい。産着を着せてもらった赤ちゃんを抱っこさせてもらうと、あたたかくてほわほわしています。

目を閉じたまま甘い吐息をたてる赤ちゃんに頬擦りして抱きしめてしまいたいほどメロメロなのに、後処置を終えると、赤ちゃんとしばしお別れになりました。分娩室がいっぱいとのことで、わたしだけが車椅子で病室に運ばれます。

 

主人とも別れて、ベッドでひと休み。ちょうど時計を見ると、おやつの時間でした。全身疲労困憊だったけれど、「…小腹すいたな」なんて思う、食い意地だけは残っています。だって、いちばん美味しいごはんが食べたいから。

 

うとうとしていると病室の扉がノックされ、助産師さんがお盆を持ってきてくれました。視線はもうお盆の上――あたたかいルイボスティとパウンドケーキ――に釘付けです。備え付けのテーブルの上に置いてくれたと同時に「食べてもいいんですか!?」と前のめりで聞いてしまい、助産師さんを苦笑させてしまうほど。

「もちろん、どうぞ」と言われてすぐ、フォークを手に取りました。そして、パウンドケーキをひとくち。

 

――すごく、おいしい。

 

やさしいバターの風味が口の中でいっぱいになって、甘いスポンジがほろりととろけていく。なんの違和感もない、苦いオブラートに包まれていないパウンドケーキのやさしい味は、間違いなく、これまでのいちばんの美味しさ。

味覚神経を直接揺さぶられるような美味しさに、ため息すら出ません。頬がにやけて止まらないし、目をカッと見開いてしまいます。ひとくち食べるたび、こんなに美味しいごはんを3回も食べることができた喜びを、パウンドケーキごと噛みしめます。

 

どれだけ待ち望んでいたことでしょう。ひたすら耐え忍んだ幾年に感じた数ヶ月と、耐え忍ぶまでに通院した数十ヶ月を経て、ようやく食べることのできたいちばん美味しいごはん。格別のおいしさ。どんな食べものより美味しくて、尊くて、幸せな味がしました。そしてそれに、ちょっぴりさみしい味も。

 

空っぽになったお皿にフォークを置いて、ぺたんこになったお腹をさすります。そこには、たぷんと垂れた自分のお肉しかありません。胃を押し上げていた赤ちゃんは新生児室にいて、きっと助産師さん・看護師さんたちの手厚いケアを受けているはずです。

ほんのさっきまでずっと、トツキトウカを一心同体になって過ごしていた赤ちゃんは、わが家の5人目の家族になった――そう分かっているけれど、いちばん美味しいけれど、いちばん寂しい味の3回めを、涙と一緒に飲み込みこみました。冬のお日さまが照らした中庭に、蜜柑の木が植えられているのを見ながら。

 


 

いちばん美味しいごはんの1回めはホットサンドとハーゲンダッツ、2回めは海鮮丼とお味噌汁でした。どれがいちばん美味しいかなんて決められなくて、だから、いちばんが3回です。どれもいちばん美味しい、大切なごはんです。

そんなごはんをときどき思い返しながら、5人での生活をゆっくり楽しんでいきたいと思います。

 

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